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次世代に付けを回す喫煙擁護者(2

2008728

宇佐美 保

 

 先の《次世代に付けを回す喫煙擁護者(1)》に続き、禁煙派の見解を先ず引用させて頂きましょう。

 

 経済アナリストの森永卓郎氏は、今まで引用させて頂いた嫌煙派の方々同様に税収の減少を次のように力説されます。

 

今年4月に行われた製薬会社『ファイザー』の調査でも、一箱1000円になれば喫煙者の8割は「禁煙する」と答えています。

8割もやめられるか」と疑う人もいるかもしれませんが、毎日2箱吸えば1カ月のたばこ代は6万円。一方で平均的なサラリーマンの小遣いは、せいぜい月4万円ほど。これには昼飯代も入っているわけですから、やめられるかどうかの問題じゃなくて、現実的に1000円もする煙草を買い続けられるはずがないんです。税収が増えるどころか、減ることだってあり得ます

 

 この森永氏の見解は、11000円」提案者の笹川氏の「喫煙者が減って税収が増えなくても、それはそれでさまざまな損失がカバーできるのですましてや若い人の健康はお金に替えられません。」を完全に無視しています。

税収が減っても、「喫煙者の8割は「禁煙する」」となれば、11000円」は、大成功ではありませんか!?

 

 更に、森永氏はとんでもない見解を披露しています。

 

 それに、これは悪いことかいいことか議論が分かれるところなんですが、みんながたばこを吸わなくなると、平均寿命が数年延びる。

すると何が起こるかというと、一つは年金支給額の増加。もう一つは高齢者医療費の増加。この分の財政負担も大幅に増えるのは避けられない。少なくとも数兆円レベルになるでしょう。

 つまり、日本の財政はたばこの値上げで急速に悪化する。いま財政が厳しい状況にある時に、あえて財政破壊行為をしようとしているわけで、これはじつはとんでもない話なんですよ

 

 森永氏がこのような見解を公にするとは意外でした。

この見解は、「アフリカ等で、医療食料に恵まれない子供らを救援したら、世界は食糧難に陥り、とんでもない事態となる」、ひいては、「食糧難の世界を救うために、世界的な戦争を行い、世界の人口を低減させるべきである」的見解と何ら変らないように感じます。

 

 

 喫煙派の最後には、『すばらしき愚民社会(20048月:新潮社発行)』(この書の帯びには“バカが意見する世の中”と書かれています)の著者の小谷野敦氏(作家・「禁煙ファシズムと戦う会」代表)に登場して頂きましょう。

 

 此処までに引用させて頂いた喫煙派の方々のご見解を御読みになった方々は、小谷野氏の著作の帯に書かれた言葉が本当だ!と膝を打ってしまうのではないでしょうか?

 

 それでは、そのような見解を発する小谷野氏ご自身は、如何?と思いつつ、氏の見解を全て掲載し、検証させて頂きたく存じます。

 

 尚、『すばらしき愚民社会』には「禁煙ファシズム」を斬る≠フ章がありますので、この章等に書かれた小谷野氏の見解も一部引用させて頂きたく存じます)

 

 氏は次のように書き始めています。

 

 たばこ好きの私とて、なにも人ごみで吸いたいとは思っていません。人がまばらで、迷惑をかけない場所ならよかろうと思うのですが、今はそれも許されない。

これはもう禁煙ファシズム以外の何物でもありません。

 

 この冒頭の「たばこ好きの私とて」の一節に対して私は違和感を感じます。

氏の著作には次のような記述があります。

 

 私自身の体験を話してみよう。私は子供の頃から、父や親戚のおじさんがたばこを吸っていると、「いい香りだなあ」と思っていたし、クルマに酔うたちだったが、たばこの煙が流れてくると少し気分が良くなる、というような子供だったから、やはり、三つ子の魂百まで、大学へ入ったころから吸いはじめ、卒業までは日に一箱も行かない程度だったが、大学院へ入ってストレスが大きくなると次第に増えはじめた

 

 ここで、小谷野氏が「私は子供の頃から・・・いい香りだなあ」と思ったのは、「三つ子の魂百まで・・・」には続かないのです。

フィリップモリスのホームページを訪ねれば、次の記述に気が付くはずです。

 

.

紙巻たばこに含まれる添加物

当社の紙巻たばこの主な原料はたばこの葉です。そして、当社の主力製品の多くには、
その製品特有の風味をもたらすために、たばこ葉のブレンドにさまざまなフレーバーが添加されています。

 

 私の記憶でも、戦後、父親が吸っている外国たばこ(進駐軍から入手?)は、従来の日本のたばことは違って、とても素敵で魅惑的な香りだった事を覚えています。

悪魔の誘惑のようでした。

そして、そのような大人の作る環境で、子供達はタバコの世界に引き釣り込まれてゆくのではありませんか!?

 

 そして、氏の著作は、次のように続いています。

 

カナダヘ留学したのは一九九〇年のことだが、その際、印象的なできごとがあった。留学前、英会話を磨くために、アテネ・フランセの英会話のクラスに通っていたのだが、そこで一人一人がスピーチをさせられた際に、断煙の苦しみについて話した。なお、「禁煙」というのは他人に喫煙を禁じることを意味するはずで、自らやめるのは「断煙」と呼ぶべきだろう。

 さて私は、断煙を試みて禁断症状に苦しむと、サタンが私の耳もとで悪魔の囁きを行う、「そんな思いをして何になるというのだ、好きなたばこをやめて長生きして何の意味があるというのだ」と言われ、結局失敗してしまう、とユーモアを込めて話して、喝采を浴びた。

 

 この記述から明らかなように、

小谷野氏にとってのたばこは、「たばこ好きの私」のタバコではなく、
小谷野氏を「ニコチン中毒に引き摺り込んだタバコ」でしかないのです。

 

 更に、小谷野氏の著作には次のようにも書かれています。

 

「神経症の人がたばこをやめるのは難しい」と書いてあった。これだ。私は神経症質である。精神疾患の分類はまるで確定していないので、仮にある解説を用いるなら、神経症と神経質は地続きのものなので、「神経症質」と言っておくが、ここで言っているのは、常にイライラの種を抱え、精神的動揺の程度が大きい、という性格である。私の場合、十年来の神経症だから、まずたばこのやめられる状態ではない。・・・

東京へ帰ってきてJR東京総合病院の断煙外来へ行ったが、たちまち挫折した。医師によると、成功率は六〇パーセントくらいだという。

 

 

そして、この記述からも、

小谷野氏にとってのタバコは、「嗜好品」ではなく
「ニコチン中毒に引き摺り込んだタバコ」でしかないのでしょう。

 

 更に驚くのは、小谷野氏は「禁煙の成功率は六〇パーセントくらい」と知らされながら、禁煙できない残りの40パーセントの方々への配慮が全くないのです。

禁煙に成功する60%の方々に加えて、禁煙に失敗する40%の方々がいる事実です。

小谷野氏が「喫煙讃歌」を声高らかに歌えば歌うほど、禁煙を試みる人の数は減り、試みても失敗に終わる方の数は増えてゆくでしょう。

 

 

次のようにも書かれています。

 

 神経症は、往々にして死の恐怖の形をとる。私の場合も、死の恐怖をたばこで紛らわしているところがある。それで寿命を縮めることになったら意味はないようなものだが、いくら長生きしても死はいずれ訪れるものだ。それが怖いから、たばこで紛らわす。もっと高尚に言うなら、「死」という最終地点までべたっと広がっている「時間」を分割するために吸っている

 

 

この記述からも、小谷野氏にとってのタバコは、「嗜好品」ではない事が判ります。

そして、著作では次のように書かれています。

 

高齢化こそ問題なのに、これ以上長生きさせてどうしようというのだ。もちろん、若死にしたくないという心情は分かるが、若死にの原因は、自殺のほかは遺伝性のあるいは突発性の疾病等であって、健康に留意してどうなるものでもない。日本は仏教国であったはず、仏教は「生」その他に執着することこそ人間の不幸の根源だと教えたのだ。それがどうしてこうも生命に執着する命根性の汚い国民になってしまったのか

 

 この「高齢化こそ問題なのに、これ以上長生きさせてどうしようというのだ」との見解は、冒頭の森永氏と同じ見解なのに驚かされますが、禁煙者を「生命に執着する命根性の汚い国民」と非難する前に、

「仏教国」の一員である小谷野氏も、タバコに頼らず「死の恐怖」を克服したら如何ですか?!

 

 それに、私の友人は40年ほど前、仕事場で石綿を吸い込んだ為、数年前から中皮腫に苦しみながら社長の職務を果たしています。

その、残り少ない命を、何とか社員の幸福に捧げようと努力しています

その彼を、小谷野氏は「生命に執着する命根性の汚い国民」と非難するのでしょうか!?

 

 

更に引用させて頂きます。

 

 たばこは、ストレス解消になる、とも言う。これに対して、喫煙は心拍数を増やすからストレス解消にはならない、と言う人がいる。だが、ストレス解消などというのは、当人がストレス解消になっていると思えばストレス解消なのだ

 

 

 此処では、小佐野氏、ご自身が「ストレス」状態なのか、「ニコチン中毒」状態なのかが、明確になっていません。

それを

当人がストレス解消になっていると思えばストレス解消なのだ」として、
タバコの有効性を誇示するのは如何でしょうか?

この論法は、小谷野氏が非難する「タバコは駄目だから駄目!」的な嫌煙論と同じではではありませんか!?

 

 東京新聞(2008720日サンデー版)には、次のような記述(紙面ではイメージ図も併せて)が掲載されています。

 

「ニコチン依存のサイクル」

 タバコは習慣になると、脳にある「報酬回路」と呼ばれている部分がニコチンに反応するようになり、喫煙後10分ぐらいまでは陶酔感や快感を感じるが、20分もすると、ニコチンの血中濃度が低下して再び吸いたくなる4050分もすると不快感と強烈な渇望感が出てくるため、次のたばこを吸わずにはいられないという連鎖につながり、ニコチン依存から抜けられなくなる。

(注:この時間は平均的なものであり、個人によって違いがある

ヘビースモーカーの場合、そのサイクルは短くなる)

 

 私には、小谷野氏は紛れもない「ニコチン中毒者」として感じられます。

ですから、若い方への影響力が強い小谷野氏がタバコを嗜好品と偽りつつ歌う「喫煙讃歌」に、次代を担う若者達が感銘して喫煙派への門をくぐって行くことが心配です。

 

 

 週刊誌の記述に戻りますと、次のようになります。

 

 私にいわせれば、ならば自動車はどうなのか。排気ガスを撒き散らすばかりか、凶器として人を殺すこともあるのに、メディアはまるで指摘しません。不快というなら、酒だってそうです。

私は酒を飲みませんが、酒好きと同席して、からまれたり暴言を吐かれたり、さんざんな目にあったことは数知れず。欧米では酒にも厳しく、コンビニで自由に買うことなどできませんが、日本は酒には甘く、たばこにはやたらと厳しいのです。

 

 

このような論を吐くなら「大麻を吸うのが何故違法になる」、
ひいては「アヘンだって吸わせろ!」、
そして、「あんなに有益な鉱物資源の石綿を何故使用禁止にするのか!」との論を小谷野氏は唱えるべきです。

 

 それに、小谷野氏は冒頭“人ごみで吸いたいとは思っていません。人がまばらで、迷惑をかけない場所ならよかろうと思う”と書いていますが、「酒好き」とて、そんな所では酒を飲みません、飲む場所をわきまえています。

(この件は、以下の小谷野氏の記述に対しても当て嵌まります)

 

 そして、次のようです。

 

 こんな禁煙ファシズムが生まれるきっかけをつくったのは、’02年にスタートした東京・千代田区の路上喫煙規制条例です。これ以降、多くの自治体で喫煙を規制する動きが急速に広がっています。規制といいますが、警察が取り締まって、路上喫煙=逮捕というわけじゃない。憲法13粂(個人の尊重、幸福追求権)の侵害になるからです。単に課金制にしているだけなので、私はこの罰金″は払う義務はないと考えます。もし課金されたら、即訴訟と思っているのに、なかなか捕まえてくれません(笑)。

 さらに’03年には健康増進法なるお節介な法律が施行されましたが、これが禁煙ファシズムへの決定打になりました。これを機に関東の私鉄大手5社がいっせいに駅構内の終日全面禁煙に跨み切ったのです。

 しかし、ちょっと待ってほしい。健康増進法25粂のどこにも、公共施設における「全面禁煙」など明記されていません。書かれているのは、「多数の者が利用する施設を管理する者は、受動喫煙を防止するために必要な措置を溝ずるように努めなければならない」つまり分煙に努めなさいと言っているにすぎません。にもかかわらず、一斉に右へならえの全面禁煙。過剰反応としか思えないのです。

 

 

 此処での小谷野氏の見解を支える「健康増進法25粂のどこにも、公共施設における「全面禁煙」など明記されていません」は、先の《次世代に付けを回す喫煙擁護者(1)》に書きましたように、

この「健康増進法25」は、タバコの主導権を財務省で無く、
厚生労働省が握っていたら、「公共施設における全面禁煙」が明記されて当然だったのです。

 

 ですから、神奈川県知事の松沢氏の次の記述からも納得できると存じます。

 

ちなみに「公共的スペースでの受動喫煙防止に賛成か反対か」のアンケートを無作為抽出で県民5000人に行ったところ、実に88.5%の人が賛成してくれました。私どもの考える公共的スペースというのは役所や学校、福祉施設だけではありません。たとえ、民間の建物だろうと、不特定多数が出入りする屋内の場所はすべて公共スペースになる。つまり、駅、劇場、映画館からレストラン、パチンコ施設、旅館、カラオケボックスなども対象として検討しています。

 

 この松沢氏の方針に賛成する「88.5%の人」の中には当然、喫煙派も含まれている筈です。

そして、その方々は、機会があれば何とか、喫煙による「ニコチン中毒」から脱出したいと考えておられるのだと存じます。

そんな彼らに小谷野氏は「好きなたばこをやめて長生きして何の意味があるというのだ」と言えるのでしょうか?!

 

 (小谷野氏は、禁煙された方の見解にもっと耳を傾けるべきです。

私のホームページには、禁煙された御二人からのメール(《喫煙禁煙実体験者のメールから》&《喫煙禁煙実体験者のメールから(2)》)を転載させて頂いております。

 

 更には、小谷野氏は「受動喫煙」の害を甘く見ています

タバコを吸う人は、タバコの有害物質の多くは、タバコの「フィルター」で除去されます。

しかし、

タバコの先から立ち上るタバコの煙にはフィルターが付いていませんから、
タバコの有害物質がそのまま空気中に拡散されるのです。

その有害物質がそのまま含まれるタバコの煙を、禁煙者も「受動喫煙」と言う事で吸わされてしまうのです。

小谷野氏が「受動喫煙」の害を無視するのなら、
ご自身がタバコを吸う時には、
ご自身のタバコのフィルターを除去してから吸ってください。

 

 なにしろ、このような屁理屈を捏ねる小谷野氏には、「タバコの害を蒙る方々への配慮」が欠落していると存じます。

例えば、コロンビア・ライト氏(漫才師)は次のように書かれています。

 

 ショートホープを一日平均40本、多いときには120本も喫っていたヘビースモーカーの私が、喉頭がんで声帯を失ってから丸17年がたちました

・・・

しゃべりで生きる芸人が、その芸の生命というべき声を失えば、それこそ芸人廃業、すなわち人間引退、イコール死です。

 私も歳をとったとはいえ、少しは名の知れた元漫才師。プライドだってありました。

──鳴呼、オレも終わりだなァ……。

 がっくり肩を落としているとき、国立がんセンターの担当医・海老原敏先生にこう励まされたんです。

「ライトさん、腹話術やってたじゃないか。それで発声法を身につけて、現役復帰できたら、ギネスブックものだよ!」

 それを聞いたとき、まさしくガーンとしましたね。

よし!オレはまだタレントでやれるって。

 喉頭がんの原因は、90%が喫煙と言われていて、禁煙すれば、がんにはまずならない。喉頭がんは死亡率自体は低く、日本では90%は助かる病気です。幸いなことに声帯を失っても、食道から息を吐きだし、代用音声にする練習を繰り返せば、再び話せるようにもなれます(食道発声法)。

 はじめは大変でした。「トイレ」の一言が言えず、お漏らししたことだってありました。

 やがて懸命の発声練習や呼吸法が幸いして、こうして無事、しゃべることができるようになりました。まるで生き直しをしたみたい。

 もう、たばこには懲りごりですね。・・・

 

 

 このようなコロンビア・ライト氏に向かって、小谷野氏は「好きなたばこをやめて長生きして何の意味があるというのだ」と言えるのでしょうか?!

 

 そして、小谷野氏の著作の中には次の記述があります。

 

 チェリストで音楽教育家の斎藤秀雄などは、チェロを教えながらたばこをふかし、その吸殻をチェロの穴の中へ入れていたので、チェロの中はたばこの吸殻だらけだったという(中丸美袷『培遊曲、鳴りやまず』新潮文庫)。まことに大らかな時代だったというわけだ。

 

 

 しかし、小沢征爾氏など多くの指揮者を送り出した斎藤秀雄氏に関して、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は、「癌のため1974918日に東京都中央区明石町の聖路加国際病院で亡くなった。」と記述しています。

齋藤氏が癌で亡くなる事がなかったら、小沢征爾氏を凌ぐような指揮者を大勢輩出されていたかもしれません。

又、齋藤氏は、指揮もなさいましたから、後世にも残るべき素敵な名演の録音録画を残しておいて下さっていたかもしれません。

 

 なにしろ、数々の名演(録音、録画)を残され、惜しまれつつ20011229日に93歳で亡くなられた指揮者の朝比奈隆氏(酒好きで有名)は、その2ヶ月前の1024日迄、指揮台に上がっておられたのですから、72歳でこの世を去ってしまわれた齋藤氏も、もう20年長生きして、朝比奈氏に劣らない名演を残して欲しかったと思わずに入られません。

(昨夜は、朝比奈氏が亡くなる1年前に、指揮をされ、聴衆から盛大な拍手を受けた「ブルックナーの交響曲:9番と4番」がNHKの衛星第2で放映され、私はそれを録画して、その名演を聞きながらこの文章を書いています)

 

このような齋藤氏にも、小谷野氏は「好きなたばこをやめて長生きして何の意味があるというのだ」と言えたのでしょうか?!

しかも、小谷野氏は著作で「仏教は生の意味を教えてはくれない。ただし、長生きがいいことだなどと、仏教は教えない。」と書かれていますが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には次のように書かれています。

 

朝比奈は90代以降、「ストコフスキーの最高齢記録を抜く」と公言し、一見では特に大きな身体の故障もなかったので、記録達成は容易だと見られていた(朝比奈は当然、ストコフスキーが亡くなった年齢・95歳を意識していたが、ストコフスキーが公開の演奏会に出演したのは93歳までである。

 

 長生きは人によっては大事な事です。

朝比奈氏にも大事だったはずです。

なのに、その朝比奈氏に「長生きがいいことだなどと、仏教は教えない」と小谷野氏は言えたのでしょうか!?

 

 

 此処でもう一度、氏の著作から次の記述を引用しなくてはなりません。

 

 宮台の意見書は当人のホームページに載っているが、・・・

 宮台は、メディアの影響そのものよりも、当人の対人関係が与える影響のほうが大きいという説を用い、特に新しい研究として、カナダ下院の「テレビの暴力に関する報告書」(九三年)が「テレビの暴力シーンと実際の暴力行為の間に決定的な因果関係(強力効果)が実証できない以上、法的な規制は不適切であり、関係者が協力して問題に取り組むのがいい」という結論を採用している(なお、私は基本的に、インターネット上の言論は資料として用いないことにしている

活字になるまでには数人の目を通るが、インターネットは個人の悪意によって容易に掲載できるから、無責任なものになるからである。ただこの場合は活字上で斎藤が参照しているので、特例である)。

 

 このような小谷野氏は、『ウィキペディア(Wikipedia)』で、齋藤氏が癌で亡くなられたと書かれていても無視されるのでしょうか?

それに、私のこのホームページ上の記述などは無視無視無視・・・・・・・!と言うことなのでしょう。

 私は、インターネットでの情報は、自分でその正否を判断して参考にさせて頂いております。

活字化する手段を持たない方々にとっては、インターネットは大事な発表の場である筈です。

 その貴重な場を踏みにじる小谷野氏は、著作の中で次のようにも書かれています。

 

もっぱら日本近代文学と社会学を専攻する「カルスタ」派は、九〇年代以降、揃って、東大出身ではないのに東大教授になった小森陽一と上野(千鶴子)をそれぞれ旗頭にして近代日本批判に精を出したのだが、彼らが前近代日本、なかんずく徳川日本に関してまともに勉強した形跡はまったくなく、その内、「江戸ブーム」派とカルスタ派が野合して、まるで江戸時代はパラダイスであったかのごとき奇妙な言説が流布し始めたのである。

 

 この記述から、著者略歴に目を移しますと、次のように書かれていました。

 

1962年茨城県生まれ。東京大学文学部英文科卒業、同大学院比較文学比較文化専攻博士課程終了。学術博士。
現在、国際日本文化研究センター客員助教授、東京大学非常勤講師。

 

 小谷野氏には、東大でなければ、大学でないとの意識が強いのでしょうか!?

(それとも、東大卒の俺こそが、彼らに代わって東大教授になるべきだと憤っているのでしょうか?
最小限、東大卒でなければ、バカだ、愚民だと思っているのでしょうか?)

ところが次のようにも記述して、エリート意識のないことを表明しようとします。

 

 数年前、私は学会のために朝九時ごろ家を出て、昼食を準備しなければならなかったので、周囲の店がまだ閉まっている中、小さなパン屋でサンドウィッチを買った。そこでは、正面のウィンドウにサンドウィッチが並べられ、その向こうの小さな空間で、父、母、娘とおぼしい三人が、せっせと立ち働いてサンドウィッチを作り、売っていた。私が、美しい光景を見たと思ったのは、片面においては、肉体労働に携わらない者の感傷だろう。だが片面において、私は、そこに働く三人が、三島由紀夫やトルストイの名を知らなかろうと、一向に構わないのだ。彼らは選挙になれば、テレビでおなじみのタレント候補に投票するかもしれない。が、それが彼らの罪だろうか。

彼らは「愚民」ではない

 私はビニール袋に入った、あまり美味しくもなさそうなサンドウィッチを贖って、本当の「愚民」たちの群れ集う「学会」に向かった。

 

 

 このような「小さなパン屋の父、母、娘」の働く情景を、小谷野氏が「美しい光景」と感じたならば、彼らにもそれなりに掛け替えのない人生がある筈です。

このパン屋さんの誰かが、癌では亡くなってしまったら、残された二人は悲嘆にくれるのではありませんか!?

その彼らに向かって小谷野氏は「好きなたばこをやめて長生きして何の意味があるというのだ」と言えますか!?

 

 

 しかし又、次のようにも記述しています。

 

よく物書きで、たばこをやめたら仕事ができなくなる、と言う人がいるが、学者・評論家でも、知的作業は緊張を強いるから、もし喫煙者になる遺伝的素質を持っており、喫煙の習慣を身につけてしまったら、まずやめられない

 

 

此処での「喫煙者になる遺伝的素質」とは一体何なのでしょうか!?

小谷野氏が禁煙(ご本人は「断煙」と表現されてますが)が出来ない口実にしか思えません。

その上、「緊張を強いる」のは「知的作業」だけですか?
それにしましても、作家である安部譲二氏はある禁煙用商品で禁煙されたとその商品の広告を飾っておられます。安部氏の「禁煙」前後のお話を聞かせていただきたいものです)

物書き学者・評論家知的作業であるかは兎も角)
 

 ミュージシャンも(知的作業者?以上に)緊張を強いられる筈です。

ミュージシャンのサンプラザ中野くん(氏とつけるのでしょうか?)の見解は次のようです。

 

 俺は、25歳で禁煙しました。理由は、「たばこを吸っていたら体力的に続かない」と思ったから。それまでずっと吸ってたけど、いま思えば、当時はとても疲れやすくて体力がなかった。だから、スパッとたばこはやめました。たばこは、俺の人生にとって何の意味もないもの。それ以来、1本も吸っていません。・・・

 最近は、ミュージシャン仲間でも、喫煙者は減ってきています。なにしろ、ローリング・スト−ンズのミック・ジャガーも禁煙したぐらいですから。ミック・ジャガーは、ロックというジャンルのなかでいまだに時代を体現して生きている男です。’70年代は「セックス、ドラッグ、ロックンロール」を体現していたミック・ジャガーも、いまは完璧に健康志向になつている。ロックというのは、その時代をきらきらと映し出す鏡だと思いますが、そのロックの申し子であるミック・ジャガーが、時代とともにどんどん変化を遂げ、いまは「健康こそロックである」というメッセージを発しているんです。それは、マドンナもしかりです。

 ところが、日本だけ、その時代のメッセージをしっかりと受け止めていません。日本も、ニューヨークやロンドンのように、いますぐすべての店を禁煙にせよ。俺は、怒りに近い気持ちでそう言いたいですね。

先進国で白人の喫煙率が低下する一方で、いまは世界的にみて、「たばこは黄色人種に吸ってもらえ」的な状況になっている。はっきり言って、世界の金持ちに、日本人はバカにされているんです。

 それなのに、いまだに「たばこは日本の文化だ」なんて、バカなことを平気で言う奴がいるたばこが日本に伝来したのは1500年代だし、そもそもたばこって言葉自体がポルトガル語でしょ。全然、日本の文化なんかじゃねぇよー(笑)′

 

 このサンプラザ中野くんに対して、小谷野氏はどのように反論されるのですか?

私は「喫煙者になる遺伝的素質を持っている」、サンプラザ中野くんとは別の世界の人間ですと答えるのでしょうか?

 

 又、小谷野氏の著作は次のように書かれています。

 

 そしてどう考えたって、現代社会はストレス社会になっている。なのにこの反たばこ運動でたばこをやめている人が多いとすれば、そのストレス解消法は何か別のものに置き換えられていると考えるべきではないか。これは追跡調査しなければ分からないが、たばこをやめた代わりにアル中になったり、暴力を振るうようになったのではしょうがないし、仕事ができなくなってもしょうがない

 

 

 こんな台詞を小谷野氏はサンプラザ中野くんに対してぶつけられるのですか!?

そして、小谷野氏は“どう考えたって、現代社会はストレス社会になっている”と言われますが、どの時代にもストレスは存在していたでしょう。

たばこが日本に伝来したのは1500年代」までの方々にもストレスはあった筈です。

そんな方は、タバコがなくてのたうち回って苦しんで死んでいったとでも言うのでしょうか?!

小谷野氏は先に「仏教は「生」その他に執着することこそ人間の不幸の根源だと教えた」と書かれています。

執着することこそ」「人間の不幸の根源」であり、「ストレスの根源」ではありませんか!?

ストレス解消法」は、仏教の教えのように「執着を捨てる」ではありませんか!?

タバコではないのです。

 

 

 そして、又、週刊誌の記事に戻りますと次のようです。

 

 しかし、それよりも何よりも私が不愉快なのは、禁煙運動家の人たちとは議論が成立しないことです。以前、日本禁煙学会の理事長が公開討論をやりたいと言ってきたことがありましたが、応じませんでした。どうせ禁煙運動家を動員して、こちらを袋叩きにするのは目に見えているからです

彼らはやたらと撲滅という言葉が好きで、酔っている。そういうメンタリティーがヒトラーを生んだんじゃないですかと言いたくなりますが、たばこと売春を世の中から完全に排除することは、どだい無理なんですよ。

 私はいま「禁煙ファシズムと戦う会」を結成していますが、かくも理不尽な世の中と立ち向かうには、もはや「日本喫煙者党」(笑)を結成して国政に出るしかないでしょう。心ならずも世間の隅に追いやられた愛煙家たちの熱い支持が得られるものと確信しています。

 

 

 おかしくはありませんか?!

小谷野氏が「私が不愉快なのは、禁煙運動家の人たちとは議論が成立しないことです」と言うのなら、小谷野氏ご自身の論に筋が通っていなくてはなりません。

ところが、今まで考察してきましたように、小谷野氏の論は、滅茶苦茶で筋が通っているとは思えません。

 

 “「日本喫煙者党」(笑)を結成して国政に出るしかないでしょう”と語る小谷野氏は、「日本禁煙学会の理事長が公開討論をやりたいと言ってきた」なら「どうせ禁煙運動家を動員して、こちらを袋叩きにするのは目に見えている」としても、公開討論に応じるべきです。

公開討論に応じないのなら、「国政に出る」とは冗談にも言わないで頂きたいものです。

 

「彼らはやたらと撲滅という言葉が好きで、酔っている」と言う小谷野氏は、著作では次のように書かれています。

 

 この稿のゲラを見ている段階でも、毎日のように「反たばこ」系のニュースが入ってくる。まるで軍国主義体制へと向かった一九三〇年代のようだ。そこのあなた、「こんなにみんながたばこが悪いと言うんだから、悪いんでは?」と思っていませんか?あの時代も、戦争に反対するのがどんどん難しくなっていったんですよ。

 

 更には、次のようです。

 

 

 イプセンの戯曲『民衆の敵』というのがある。新潮文庫の解説目録からその梗概を引用しょう。

 

 「一人で立つ者が最も強い」──。町を繁栄させている温泉の水道管に、毒物の混入することを知った医学士ストックマンは、温泉委員会に対して水道の改良工作を提案したが、自らの利益だけに汲々としている野心的な人々は逆に、町の利益を妨害する「民衆の敵」として、彼を攻撃し迫害する……。自由で高貴な精神を愛したイプセンが、低俗な民主主義と、功利主義に挑戦した力作。

 

 知識人なるものは、すべからく、かくのごとき「民衆の敵」であってほしいと思う。

 

 

この文章を見ると、「知識人」は小谷野氏であって、
民衆」は「禁煙運動家の人たち」であり、
小谷野氏は、(「軍国主義体制」への流れに立ち向かうかのように)
「禁煙運動家の人たちの敵」を演じる事に酔っていると思えてなりません。

でも、そんな小谷野氏は「風車に立ち向かってゆくドンキ・ホーテ」でしかありません。

風車は農民にとって大事なものです。

その風車をドンキ・ホーテに壊されたらたまったものではありません。

そして、「禁煙」は私達にとって大事なものです。

それをドンキ・ホーテ気取りの小谷野氏に破壊されたのではたまったものではありません。

そして、何度も書きますが、
小谷野氏は「石綿の使用禁止」の流れを「まるで軍国主義体制へと向かった一九三〇年代のようだ」と言いつつ、
「石綿は有益な鉱物資源である!」とでも唱えて、反対されたのでしょうか!?

 

 ところが、こんな小谷野氏は著作の最後を、次の言葉で締めているのです。

 

今日も元気だタバコがうまい

 

 小谷野氏にとってのタバコが、小谷野氏にとって「純粋な嗜好品」であるなら、この言葉は素敵な言葉になります。

しかし、週刊誌そして著作の小谷野氏の記述からは、小谷野氏にとってのタバコは、ニコチン中毒者の小谷野氏の中毒症状を一時的に緩和するだけの物質でしかありません。

なのに、

「喫煙を擁護」して、多くの喫煙者に禁煙を断念させたり、
まだ、タバコに手を出さずにいる(従って「ニコチン中毒」に陥っていない)
若者達に対する喫煙への誘惑を取り除かない(と言うより誘惑する)のは、あまりに無責任であると存じます。

 

 以上振り返って考えますと、

小谷野氏の著作『すばらしき愚民社会』の「愚民」とは小谷野氏ご本人であり、
その帯に書かれた「バカが意見する世の中」の「バカ」も小谷野氏ご自身である事が判るのです。

 

 更には、(先の拙文《ペンは剣より強く金より弱し(金で煙草を擁護する輩)》にご登場頂いた、ブログのヒット数が1400万以上を誇る内田樹氏を含めて)『週刊現代』の特集記事中の喫煙賛成派のご意見が、全て自己中心的な意見であったことに驚かされます。

 

 タバコの害、そして、間接喫煙の害(フィルターを通さずに空気中に発散されるタバコの煙の害)、そして、他人から禁煙を勧められることを拒否され、タバコは嗜好品と主張される方々、は、

 

タバコをお吸いになる時は、
タバコのフィルターを取り除いて、タバコ本来の味を存分に味わってください。

(それも、死ぬほど存分に味わってください)

 

 但し、次世代を担う若者を、喫煙への道に誘いもむのは止めて下さい。

 


 

(補足)

 小谷野氏は、著作の中で次のようにも書かれています。

 

 自然科学について、ジョン・ホーガンの『科学の終焉』(徳間文庫)という本が話題になったことがあった。デカルト以来、メジャーな自然現象はあらかた研究し尽くされて、もう細々したことしか残っていないから、今後、大きな科学的発見はないだろう、というのだ。同じことが、人文諸学についても言えるのだ

 

 

 小谷野氏の著作に目を通しますとと、小谷野氏の文学に対する知識知見に対して、私は脱帽せざるをえません。

 

ですから、ご自身が「ニコチン中毒者」であることをはっきりと認識し、「喫煙讃歌」などを歌わず、又、「今後、大きな科学的発見はないだろう、というのだ。同じことが、人文諸学についても言えるのだ。」と妄信することなく、自室にこもり、思考三昧、嗜好三昧に耽りつつ、小谷野氏の本来の分野での偉大なる研究を、タバコの力を借りながら成し遂げることを期待し、願わざるをえません。

 

 小谷野氏を徹底的に非難した私は、小谷野氏がご納得されてる「今後、大きな科学的発見はないだろう」の説に反して、ファラデー、マクスウェルらによって確立されている今までの電気の分野に於ける理論をほとんど全て覆す新しい理論を研究して確立し『コロンブスの電磁気学』を執筆し(《『コロンブスの電磁気学』の概略》をご参照下さい)、更に、電気化学、半導体の分野でも新しい理論を展開せんと同著の増補改定版に向けて(肺の中に溜め込んでしまった石綿が暴れださない事を願いつつ)研究執筆の最中です。

 

 
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